2018.10.21 Sunday

集い

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    2018.10.20 Saturday

    腹を括る

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      クリニックに通院。精神状態を話す。

       

      断酒して見えて来たものを考える。淡路島で行われた一泊研修で、どん底まで堕ちた人たちを見て来た。仕事を失った、家庭を失った、社会的信頼を失った、財産を失った……そして、一番酷い人は健康を失った。お酒が脳に回ってまともに喋れなくなった人が居られた。お酒が抜けてもまともに喋れないのだ。そんな方が断酒して立ち直りを賭けて努力している、そんな姿を見た。人生、腹を括ったら立て直せる。逆に言えば、立て直すためには何処かで腹を括らないといけない。

      2018.10.19 Friday

      今日の映画

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        白石和彌『彼女がその名を知らない鳥たち』を観る。4.3 点。

         

        サスペンス/ミステリとして観ると、間延びしている感が否めない。だから中盤はかったるくてしょうがなかったのだけれど、後半の阿部サダヲの行動の意味が明らかになるあたりから尻上がりに面白く感じられたので(あと、禁欲された音楽の使い方も巧い!)、結果的にこの点数に落ち着いた。つまり、この映画はラヴ・ストーリーなのだ。谷崎潤一郎的な……マゾヒストとしての阿部サダヲが献身的に尽くす『春琴抄』的なストーリーとして観ることが出来る。白石和彌監督の映画は不勉強にして『凶悪』しか観ていないのだけれど、過去と現在を自由自在に往還する手腕はなかなかでストーリーに膨らみを与えている。事務的に整理してしまえばイヤミスであるこの映画は、だけれどもこちらに安直にカタルシスや共感を委ねる形では終わってくれない。『凶悪』でもそれは変わらなかった。なかなかヘヴィな映画だ。再見を誘う力がある。

        2018.10.18 Thursday

        ジム・ジャームッシュ『パターソン』

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          法月綸太郎に倣って、この映画を「二の喜劇」と名づけてみるのはどうだろうか……観ながらそんなことを考えていた。「二」。例えばこの映画は、地名としてのパターソン「と」人名としてのパターソンをめぐる映画として受け取ることが出来る。あるいは男「と」女をめぐる映画。一週間にわたって繰り広げられるのは、パターソンという詩人にしてバス運転手の男「と」、ケーキを焼きギターを弾く女をめぐるドラマである(と書いて、ここに「詩人『と』バス運転手」という新たな二項対立を見出せることに気がついた)。

           

          あるいは、映画に登場するのがアボット「と」コステロであることに留意されたい。もしくはロミオ「と」ジュリエットも重要な素材として登場する。女性が焼くケーキや塗るカーテン、弾くギターが白「と」黒であることもまた無視し得ない(このあたり、モノクローム映画からキャリアをスタートさせたジム・ジャームッシュのシブいこだわりが垣間見えて面白い)。もしくは律儀に反復されるのが昼「と」夜のドラマであることも見逃せない。

           

          そう考えてみれば、この詩人にしてバス運転手のパターソンがスマホを持たない理由も容易く見出すことが出来る。パターソンはノートに詩を書かなければならなかったのだ。何故か? 単純な話である。ノートは左のページ「と」右のページで構成されている。ここにも「二」を見出だせる。左のページが空白であり右のページが文字で埋め尽くされる、この「二」を演出させるためにジム・ジャームッシュはノートを小道具として持ち出したのだ。スマホは「一」の装置である。画面は「一」で構成されており、そこに「二」など存在しない。

           

          そして、言うまでもなくこの映画には見過ごし難い「二」が登場する。双子である。バスに乗る乗客として、あるいは恋人たちふたりが夢想する理想の子どもとして「二」の関係を孕んだ双子が現れるのだ。こんなところにも凝ってみせたのか、と唸らざるを得ない。いや、ジャームッシュ自身がここまで計算したとは考えられないとも反論されるかもしれない。だが、この映画がここまで図式的に「二」を露呈させていることを指摘せずじて、この映画のなにを味わえと言うのだろうか。

           

          チェスもまた「二」を彩る素材として登場する。パターソンの行きつけのバーの店主が凝るのが「二」者が対立するチェスであること、相手「と」自分が居てこそ成り立つ競技であることも見逃し得ない。いや、店主は自分ひとりでチェスを指すではないかと反論もあろう。だが、ならば店主は自分の中に「二」を分裂させて立ち現れるのだとこちらから異論を呈すことにしたい。店主はパターソンが詩人にしてバス運転手という「二」つの顔を持つのと同じように、自分「と」相手の「二」つの顔を備えるのだ。

           

          そして、生「と」死。この映画では登場人物が銃を持ち出す。映画が死という際どいスリルに晒される場面である。だが、その銃はフェイクである。だから誰も死なない。ここにおいて映画は死から回復され、生へとそのベクトルを転換させることになる。ここでは同時に、偽物「と」本物の銃という新たな二項対立をも露呈させていることを指摘するのは流石に言葉遊びが過ぎようか? 言い出せば映画の内部において登場人物がホラー映画を見る、映画「と」現実という「二」が際立つことも指摘出来るのだが……。

           

          いずれにせよ映画は様々な「二」に、言い換えれば様々な「と(and)」に埋め尽くされていることを確認出来るはずだ。映画において事故が起きた時にスマホが現れるのは単なる思いつきではあり得ない。事故とは非日常、あってはならないことでありそのあってはならない出来事が起きた時に、「二」を食い破る異質な存在が登場しなければならないのは必須だからだ。逆に言えば、日常において「二」は律儀に守られなければならない。だから日常が現れれば、スマホは登場しなくなる。

           

          左へ行こうとするパターソン「と」右へ行こうとする飼い犬。あるいは、ベンチに座る日本人観光客「と」パターソン……映画はこうして「と」を踏襲する。それは最後の最後まで変わることはない。ネタを割れば、詩を書き留めていたノートは一旦飼い犬によって食い破られる。ここで「二」あるいは「と」は終わってしまったかのように映る。だから、観光客に対してパターソンが自分が詩人であることを否定するのは当然なのだ。「二」あるいは「と」を演出するノートを持たないのだから!

           

          だが、その「二」あるいは「と」を構成させる新たなものとして観光客はパターソンに新品同様の白紙のノートを渡す(観光客は、縦書きの左右に――左「と」右に――開かれた本を持っていないといけない。ここがジャームッシュの聡明なところだ。彼は iPad など持たせないのである!)。だから秩序は回復される。この映画が落ち着かせられるエンディング、なんとも言えない余韻をあとに残すのはそのせいだ。映画が律儀に「二」あるいは「と」で締め括られたから……優雅な構造を備えていたからなのである。

           

          ところで、ジャームッシュはこの映画で登場人物に煙草を吸わせなかった。これもまた偶然ではあり得まい。煙草は単独で存在する「一」のものであり、したがって愛煙家のジャームッシュと言えども「二」を食い破る「一」本の煙草を持たせることは出来なかったのだ。ここにジャームッシュの誠実さと勇気を見出だせる。拍手を送りたい逸品として感じられる。悪く言えばそれだけあざとく、日和った作品ともなるだろうが。果たして、あなたの評価は?

          2018.10.17 Wednesday

          今日の読書

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            ゼイナップ・トゥフェクチー『ツイッターと催涙ガス』を読み、蓮實重彦『映画に目が眩んで』を読み、田中眞澄『小津安二郎周游』上巻を読む。今日の収穫はここまで。

            2018.10.16 Tuesday

            蓮實重彦の言葉

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              蓮實重彦の『映画に目が眩んで』という本を読んでいる。

               

              『非情城市』はまぎれもない傑作だとためらうことなく断言するために、映画における傑作の定義を記しておく。傑作とは、頑固一徹さが無上の柔軟さの同義語となり、複雑さと単純さとが嘘のような自然さで同じ一つの表情におさまる作品にほかならない。だからホウ・シャオシェン(侯孝賢)は、その定義にふさわしく柔軟な頑固さとでも呼ぶほかはない視線を被写体に向け、題材の複雑さに殊のほか単純な表現を与えようとする。(p.523-524)


              侯孝賢の映画はまだ観たことがない。観たい。だが、今は取り敢えずジム・ジャームッシュ『パターソン』を観ることにする。

              2018.10.15 Monday

              クローネンバーグの言葉

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                町山智浩『ブレードランナーの未来世紀』を読んでいる。

                 

                「すべての現実はヴァーチャルだ」。クローネンバーグはイラク戦争の後にこう言っている。「現実とは人が作るものだ。人が選ぶものだ。政治でもそうだ。ブッシュ大統領を見てくれ」。ブッシュは9.11テロの犯人をイラクとした。あらゆる証拠がそれは事実ではないと裏付けたが、アメリカ人はブッシュのほうを現実と選んで戦争を始めた。クローネンバーグは言う。「人は自分が信じる現実のために人だって殺せる。恐ろしいけど、人類とはそういうものだ」(p.67)

                 

                クローネンバーグはご無沙汰の監督。まずは『スパイダー』を観てみようか。

                2018.10.14 Sunday

                『パターソン』を観てみたい

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                  『柴田元幸ベスト・エッセイ』を読む。

                   

                  僕がいちおう専門にしている外国文学の業界内では、出来あいの物語から離れることこそが文学の役割だ、みたいに考える風潮があって、僕もそれは基本的に正しいと思っている。だからたとえば、映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観ると、いくらでも明快な物語にできそうなところを、そうしないところがいいなあ、と思うし、上映中の『パターソン』も、物語的に見ていていかにも何かが起きそうなところで起きない箇所がいくつもあって、さすがはジム・ジャームッシュ、と感心する。(p.47)


                  『パターソン』はまだ観ていない。水曜日に観てみようか。

                   

                  2018.10.13 Saturday

                  今日の収穫

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                    蓮實重彦『映画に目が眩んで』を二百ページほど読み、『ツイン・ピークス The Return』を少し観た。今日の収穫はこれだけ。

                    2018.10.12 Friday

                    小津を語る

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                      今日は吉田喜重『小津安二郎の反映画』の読書が捗った。

                       

                      それにしても人間は誰しもがかならず死ぬのであれば、死の前と後とを区分けし、それをこの世とあの世と名づけるのは、言葉が作り出す差異の戯れであり、それを使うことによってわれわれの表現が豊かになり、より生き生きと伝達されるのであれば、この世とあの世、現世と彼岸といった言葉は、宗教とはかかわりなく、もっと自由に語られてもよかったはずである。そして小津さん自身にしても、あれほど映画の表現と戯れつづけた人であれば、こうした言葉による戯れにもまた、こころよく同意したことだろう。(岩波現代文庫 p.227-228)


                      私は小津の良き鑑賞者というわけではない。『東京物語』と『お早よう』しか観ていないという体たらくなので、他の映画を観させられたくなってしまった。本書の感想は改めて。