2018.10.31 Wednesday

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    2018.10.31 Wednesday

    エミール・クストリッツァ『オン・ザ・ミルキー・ロード』

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      エミール・クストリッツァの映画も、大して観て来たわけではない。大昔に『アンダーグラウンド』を観て、その後レンタルで『ライフ・イズ・ミラクル』を観た程度だ。だから、これといった的確なことを書けるというわけではない。だが何処までこの映画を語れるか、兎も角もやってみよう。

       

      さて、「奇蹟」をどう捉えるだろうか? この映画は三つの実話が基になっているが、全体的にはクストリッツァらしく寓意を含んだストーリーとして成り立っている。そして、この映画ではあり得ない「奇蹟」が起こる。もっと言えば「夢」にも似た作品のように映るのだ。そして、多くの「夢」がそうであるようにこの映画も現実を忘れさせ、そしてご多分に漏れずこの映画も「夢」が終わったあとのような切ない余韻をあとに残す(ちなみに、この映画はオープニングは主人公の「夢」から始まる)。

       

      「奇蹟」は、例えば蛇がミルクを飲むという形で現れる。あるいは主人公たちが住む村の時計が常軌を逸してグルグル回りまくるところにも現れている(こうしたアメコミさながらの誇張した表現が、全編に言いようのない面白味を与えている)。もしくは単に、主人公たちが戦時下だというのに銃弾が飛び交う中呑気に暮しているところにもこの映画の「奇蹟」を見出すことが出来る。もっと言えばこの映画の最大の「奇蹟」は、終わらないと思われていた戦争が呆気なく終わってしまうことにあるのかもしれない。

       

      「奇蹟」は、チェスタトンを引くまでもなく起こりそうにないから「奇蹟」なのではない。起こってしまうから「奇蹟」なのだ。この映画では何度も起こる「奇蹟」が、あり得なさそうな「奇蹟」が物語になかなか侮れない旨味を与えている。普通、「奇蹟」で物語を進行させるのは――つまり、あり得ない事柄を頻出させるのは――現実味/リアリティを生み出さないこととして禁じられる運命にある。起こらないことが平気で起きてしまうという、「お約束」を逸脱することは私たちが無意識の内にタブーとしていることである。

       

      「お約束」を逸脱して平気で、例えばヒーローとヒロインが宙を舞ったり井戸に落ちたり、あるいは千切れた耳を平然と縫い物のように縫合させたりという展開に至ってしまうことは、ややもすれば「荒唐無稽」「夢物語」として映るだろう。悪い意味での「ファンタジー」でもあり得るだろう。「なんでもあり」……この「なんでもあり」は、例えばアヴァンギャルド/ポストモダンと自称する芸術の殆どがそうであるようにしばしばつまらない「おフザケ」の域を出ない。

       

      だが、クストリッツァの作品は単なる「おフザケ」に留まらない。それは結局は繰り返しになるが、そういう「おフザケ」とも思われるものがこちらを良い意味で夢見心地にさせてくれるからだろう。例えば吾妻ひでおの作品、もしくは高橋源一郎や筒井康隆の作品、あるいはそれ以上にエイフェックス・ツインの作品を思い起こせば良い。彼らの作品に通じる、ユーモアとそのあとに漂うなんとも言えないペーソス……この映画もそういうペーソスを孕んだものとして成り立っている。流石はクストリッツァ、と呼ぶべきだろうか。

       

      この映画は、「奇蹟」が起こることで悪く言えば相当にご都合主義的に進行する。それをこの映画では「寓話」と味つけ/こじつけて提示している。ユーゴスラビアを、あるいは東欧の複雑な政治事情をこの上なく分かりやすく提示してみせるクストリッツァでしか出来ない芸当だろう。あと一歩のところをヒーローとヒロインは平気で助かる。ストーリー的には単純なヒーローとヒロインの逃避行でしかないこの映画が、しかし中弛みを感じさせることなく、時間を忘れて夢中に(まさに「夢」の「中に」居るように!)させてくれるのはその味つけの職人芸が光っているからだ。

       

      ネタを割ることは慎みたいが、この映画は結局バッドエンドで終わる。いや、リアリティに着地して終わる、と言った方が良いかもしれない。このあたり、私は意外とテリー・ギリアムの感性に近いものがあるのではないか、とも思ってしまった。例えば『未来世紀ブラジル』の隣にこの映画を置いてみてはどうだろうか? と。『未来世紀ブラジル』もまたヒーロー(気取り)とヒロインの逃避行であり、全体主義的な社会をブラック・ユーモアを交えてスパイスを効かせて描き切った作品だからだ。ふたりが対話を行えばどうなるのか、なかなか興味深い。

       

      ストーリーの整理や構造の分析だけで字数が尽きようとしているが、言うまでもなくこの映画の「奇蹟」を増強しているのは動物たちの生み出すダイナミズムだ。蛇、鳥たち、テントウ虫、ミツバチ、羊、熊、蝶……言うまでもなく彼/彼女たちは私たち人間がコントロール出来ない存在であり、彼らが映画にそぐう形で動き回るのは(それはむろん躾の産物であったりCGであったりするだろうが、それを忘れさせるほど自然に動くのは)「奇蹟」的な産物なのだ。特にこの映画の蝶の撮られ方はうっとりとさせられてしまった。

       

      この映画、悪く言えばいつものクストリッツァの域を出ないかな、というきらいがある。大御所となってしまったクストリッツァにこれ以上斬新なものを求めるのは酷かな、とも思われる……と書いて、いや、とも思うのだ。クストリッツァは確実に私たちのスピードに合わせて(もしくはスピードを私たちに向けて落として)動いているのではないか? そう考えるとそのスピードの調整加減こそが「奇蹟」のようにも思われるのだ。

      2018.10.30 Tuesday

      ランチ

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        2018.10.29 Monday

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          2018.10.28 Sunday

          沢木耕太郎『「愛」という言葉を口にできなかった二人のために』

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            なかなかクセモノ。端正に綴られた沢木節は絶好調で、こちらを唸らせる。清潔な一冊で、実に生真面目かつ誠実に綴られている。だが、人を銀幕に誘うだけの力があるかどうか? このエッセイ集を読んでいると、そこまでの語り部としての才覚を期待するのは的外れという気がする。むしろジャーナリストとして優秀……良かれ悪しかれ、情報を同時代的に整理して吐き出す人、という印象を受けるのだ。そのあたり痛し痒し。悪い本ではない。だが、沢木耕太郎と私の相性が合わないからなのか、どうしてもないものねだりをしてしまう。このあたり難しい……。

            2018.10.27 Saturday

            イ・チャンドン『ポエトリー アグネスの詩』

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              イ・チャンドンの映画は不勉強にして、『ペパーミント・キャンディー』と『シークレット・サンシャイン』程度しか観ていない。だから過去の作品と対比させて語るという術を持たない。だからこの映画において私が読み取ったことを書き殴るのが良いだろうと思う。

               

              当たり前の話だが、私たちは三次元で空間を把握している。それが二次元で表現された場合、絵/スクリーンの上部にあるものを「奥」と把握する。逆に考えれば下部にあるものは「手前」と把握する。つまり上が「奥」、下が「手前」。この上/下はそのまま「タテ」と呼ばれる。この基礎的な事実を抑えておこう。でなければこの映画は読み取れない。

               

              この映画は「タテ」の関係に彩られた映画だ。冒頭場面、アグネスの死体はうつ伏せになり川面を漂う。その死体は画面の「奥」から「手前」に、つまりスクリーンの上部から下部に流れて来なければならなかった。「ヨコ」に流れてはいけなかった。アグネスの死因が飛び降り自殺であるということが明らかになることも、この「タテ」を補強している。飛び降り自殺はレッキとした「タテ」に人物が落ちる自殺方法だからだ。

               

              主人公は詩を書こうと試みる。これもまた「タテ」という関係に貫かれる。詩神/ミューズが降りて来る……それが詩というやつだ。上から降りて来る詩を待つこと。あるいは、その産物として生まれた詩が手元から放たれて上に飛び立つこと……ここにも「タテ」を見出すことが出来る。これが小説やその他の表現手段だったら苦しかっただろう。イ・チャンドンの計算能力は――むろん、それは意図的なものではないだろうが無意識が為したものであるとしても――侮れない。

               

              この映画は切り返しが多い。それは奥まった存在が手前に、あるいは手前にあった存在が奥にと、関係が入り乱れることを象徴している。「奥(上部)」に位置していた顔が「手前(下部)」に、そしてその逆に。これが「ヨコ」に併置する形の会話ならば――重要な場面では主人公たちは「ヨコ」に、つまりスクリーンの広がりに応じた形で語らうのだが、そこまで分析は出来なかった――この映画の旨味は損なわれてしまっていただろう。

               

              例えば、戯れに思い出してみよう……主人公たちはバドミントンに興じる。それは上から下に(つまり「タテ」に)落ちて来たバトンを受け止め、また上に運ぶことだ。そしてそのバドミントンは「奥」まったところにいる母親/主人公と、どうやらアグネスを集団レイプしたらしい「手前」に居る息子と行われる。そしてその関係は単に逆転する。可能であればスクリーンに応じて二人で「ヨコ」に撮ったはずだし、それが自然なのだ。スクリーンは「ヨコ」に広い。ロングショットで「ヨコ」に撮る……この映画はロングショットを使っていないわけではない。だが、こうした肝腎な場面は「タテ」で撮られるのだ。

               

              あるいは、キリスト教が登場するところ。キリストは言うまでもなく天上人である。頭上にある神という存在から啓示を授かる……むろん他の宗教もそのようなものかもしれないし、もしくは『シークレット・サンシャイン』で示してみせたように韓国がただキリスト教が日本よりも遥かに広まっているという事情を提示しただけなのかもしれない。だが、この構図を単なる偶然と斬って済ますには惜しいものがある。

               

              このタテ/ヨコの構図、奥/手前の美学はそしてそのまま、主人公がアルツハイマーを患っていることが明らかになるところにも見て取れるだろう。簡単な話だ。私たちは記憶を「奥」から引っ張り出してそして語るからだ。アルツハイマーを患うことは「奥」を、つまり「タテ」を喪失することを意味する。「タテ」の美学に彩られた世界で「タテ」を失う。これ以上の悲劇があるだろうか!

               

              もしくは、ストーリー展開において簡単な構図を少なくとももう二、三挙げることが出来る。この映画では肝腎な場面で雨が降る。雨は言うまでもなく上から下に降る。左から右に(逆でも良いが)降る雨など存在しない。この「タテ」を登場させたこともこの映画が「タテ」の映画であると示して見せている。このトリックに気づけ、と言わんばかりに。そして、主人公が決意して介護している老人に身体を売るところも座位という体位、つまり女性が「タテ」に動く体位を選ばなければならなかったのだ。なかなかクセモノである。

               

              もうひとつ。この映画では詩人の会合で、それまでは背後に隠れていてその存在を明らかにしなかった人物――ネタを割ってしまうのはマズいので誰とは言うまい――がその「奥」から「手前」に不意に現れる。あるいは自分の息子がレイプに参加していた事実を知らされることも背後/奥から眼前/手前に要素が動くことを意味している。これもまた、この映画の美学を提示している――つまり「タテ」なのだ。

               

              この映画、こうして見て来るとなかなか味のある映画だ。さながらスルメのような……イ・チャンドンらしい(そんなに観ていない、と言った尻からこんな話をして恐縮だが)ロングショットや長回しは健在。ハネケにも似た空気が活きている。後味の悪い映画として、しかし無視し得ない「タテ」の映画として成立しているように思う。

              2018.10.26 Friday

              片岡義男『あとがき』

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                片岡 義男
                晶文社
                ¥ 2,916
                (2018-10-03)

                私が読書に本格的に手を染めたのは中学生の頃で、つまり九十年代ということになる。当時から片岡義男という書き手のことは気になっていた。なにせ、今では想像もつかないだろうが途轍もない恋愛小説を「量産」していたのだ。だが、どれか一作を読んであまり心に響かなかったので、結局は三文小説を書く作家として見做してしまい、その後はノーマークで来てしまった。それがやや変わって来たのは、山崎浩一『危険な文章講座』という本で若き日の片岡義男のエッセイが引かれていたからだった。「あれ?」と思ったのだ。その内容は村上春樹を先取りしているかのような、翻訳的文体で記されており読み応えがあった。その後も折に触れて、片岡義男の「エッセイ」は目を通すようになった。

                 

                本書『あとがき』は、片岡義男が記した「あとがき」を集成したものだ。『ぼくはプレスリーが大好き』から始まって最新作に至るまで、ほぼ全ての「あとがき」が網羅されている。そんな本、何処が面白いのだ? と思われるかもしれない。私自身好奇心から手に取った(裏返せば、あまり期待せずに読み始めた)のだけれど、これがなかなかどうして読ませる。若き日の思想家としての片岡義男から、バブリーな時期をペーパーバック・ライターとして過ごした片岡義男、そしてヴェテランの風格が漂う片岡義男へと変化/成長を遂げる片岡義男の姿がここにある、と確かに感じられるのである。読み応えのある大著だ。ナメて掛かっていた自分を恥じさせられた。

                 

                片岡義男は、もしかすると日本文学界のローリング・ストーンズなのではないか、とも考えられる。ストーンズも時代と関係なくロックして来たようでありながら、実は巧みに「時代と寝た」ロック・バンドだった。片岡義男もまた、時代と同衾して過ごして来た作家と言えるだろう。七十年代、学生運動の残滓が残る時期に一ライターとしてキャリアをスタートさせた片岡義男は、アメリカの文学やその他の文物によって知見を得ることで、いち早く(今のようにインターネットなどなかった時期だったので)時流の流れをキャッチし、知識人/思想家として振る舞って来た。この時期の仕事は過小評価されているのではないか? 私も早速『10セントの意識革命』を読みたくさせられたところだ。

                 

                八十年代。日本は知られる通りバブル景気でイケイケドンドンの時期を迎えていた。この時期に片岡義男は田中康夫的な風俗小説を書きまくる。それが今になってなおどれだけ読まれるに値するか、その強度自体は私は論じる術を持たない。だが、『あとがき』を読んでいて面白いのはその八十年代に記された「あとがき」の類が今となっても一向に古びていないことだ。理由は簡単。固有名詞が殆ど登場しないからだ。当時の時代背景を伺わせる固有名詞が登場しない――そこに片岡義男のクレヴァーさを見出すことが出来る。激動の時代を、なにはともあれ生き残って来られた秘訣をここに見出すことも可能だろう。

                 

                だから、片岡義男はバブルが弾けたあとでも生き残ることが出来た。しかも今度は骨太の思想家として登場したのだ。名著と言われている『日本語の外へ』は未読なのでなんとも言い兼ねるが、アメリカと日本、英語と日本語の関係を理路整然と論じるその筆致はスリリングで、軽薄なところは何処にもない。生真面目な筆致、悪く言えばややキザったらしい筆致は驚くほど時代の変遷を経ても変わっていないことが伺える。ローリング・ストーンズが時流の流れを巧みに読んで鵺のように姿を変えつつ一貫してロックして来たように、片岡義男も時流の流れを読みつつ己の芯をアップデートして来たのだ。これもまたクレヴァーである、と唸らざるを得ない。

                 

                片岡義男。侮れない作家なのではないか。私自身は今でもなお彼の小説に興味を持たない。だが、その小説がこうした天才性に裏打ちされていることを思うと、作家としても再評価されてしかるべきではないかとも思われる。だが、私の関心は若き日のエッセイや今の考察に向かっている。もっと読み込みたい……先ほど挙げた『日本語の外へ』を早速読んでみようと思っているところだ。

                 

                本を読まれる時、「あとがき」から読む人はどれくらい居るのだろうか。私も「あとがき」をついつい気にしてしまう人間なのだけれど、片岡義男はもちろんそんな読者の心理を掴んで「あとがき」に様々な趣向を凝らしている。「あとがき」で一編のショートショートを披露したり、本編へとこちらを誘う仕掛けを施したり。多彩な芸に、それでいて芸に溺れない誠実さに舌を巻く。片岡義男をもしもただの三文小説を書く作家だと思っておられる方が居たら、騙されたと思ってこの本に目を通して欲しい。ここには、例えば池澤夏樹的な「旅行者」の姿があるし田中康夫的な「風俗小説」の書き手としての姿がある。もっと言えば、ヴァルター・ベンヤミン的な「遊歩者」の姿さえ見い出せる。意外と片岡義男が評価されるのは「これから」なのかもしれない……!?

                2018.10.25 Thursday

                ランチ

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                  2018.10.24 Wednesday

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                    2018.10.23 Tuesday

                    蓮實重彦『帰ってきた映画狂人』

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                      蓮實重彦『帰ってきた映画狂人』を読む。

                      ある時、危険なものと遭遇するであろうという予感がなくて世の中を生きていくというのは、ある意味では非常に安心できることだし、また未来に対するパースペクティブも見えてくることで、いいことです。けれども、おそらくこれから皆さん方が生きていかれる間は――僕の生きていくこともそうなると思いますけれど、やはりどこかである時、非常に危険なことが起こり、その危険なことに対処するために、何かを犠牲にしたり、何か思いがけない飛躍をしなければならない場合が、多分くるであろうと思います。(p.70)

                      蓮實の映画評はとても熱い。ポジティヴな気持ちになる。

                       

                      2018.10.22 Monday

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